女子フィギュアスケートの話

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・新採点について

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・特別寄稿 2014ソチオリンピック

(フィギュアスケートに関心ない人には退屈でしょう)

伊藤みどりさん、祝世界フィギュア殿堂入り


伊藤みどり選手について


みどりの前にみどりなし。
みどりの後にみどりなし。

 伊藤みどりの名前は以前から聞いてはいたが、演技を見たのはカルガリーの冬季オリンピックが最初だった。それまで全然フィギュアスケートには関心がなかったのだが、たまたまテレビで彼女のオリジナルプログラムを見たのがきっかけだった。伊藤選手は、祭りをイメージした音楽に乗せてジャンプを次々決め、振り付けにないガッツを入れ、高速スピンでフィニッシュした。演技後の笑顔がその完璧さを表していた。フィギュアスケートはこんなにも「スポーツだったのか」と思い知らされたのである。フリーの演技はもちろんビデオに録画した。フリーでは、5種類7回のジャンプをことごとく成功させ、観客の大熱狂の中で演技を終了した。演技直後の笑顔から、しばらくして感極まった泣き顔になり、キスクラでも山田コーチに抱かれながら泣いていた。オリジナルで小躍りして喜んでいた姿とは違った喜びの表現であった。フィギュアという華麗な競技になぜこれほどまでに力の限りを尽くすのかと思うと、こちらも泣けてきた。カルガリーの演技は何度見たであろうか。しばらくの間は見る度にこちらも泣けてきたものである。

 カルガリーオリンピックでの女子フィギュアの見どころは、サラエボオリンピックの覇者で女王と言われたカタリナ・ビットと、前々年の世界選手権で優勝したアメリカのデビー・トーマスのカルメン対決であった。結果はカタリナ・ビットの2連覇で、デビー・トーマスはジャンプミスが多く、3位に終わった。2位は地元カナダのエリザベス・マンリーで、ジャンプを堅実に決め、また地元の大声援もあり、フリー1位の成績で総合2位となった。カタリナ・ビットはフリーでは2種類のトリプルジャンプしか成功しておらず、伊藤みどりの圧倒的な技術力の前には霞んで見え、かえって表現力を誇示した振り付けは演出過剰に見えてしまった。今見返してみると、カタリナ・ビットの計算された振り付けには一分の隙もなく、これはこれで大した物だと思っている。伊藤みどりは総合では5位に入った。フィギュアの大会の最後には、上位入賞者によるエキビジションがあるのであるが、対象者と思わなかった彼女は一旦は宿舎に帰っていたらしい。呼び出された伊藤みどりは、一輪のバラを携えて現れ、松田聖子の時間旅行の曲で華麗に舞ったのである。

 解説すると、当時のフィギュアの大会では、規定、オリジナルプログラム、フリープログラムの3つの総合点で競われており、選手の順位に基づく順位点というので数値化される。その3つの種目の順位点に重みをかけ、それを足して一番小さいのが優勝となる。規定というのは、氷の上に引かれた線をトレースしてどれくらいそれをなぞっているかで判断するらしい(見ても面白くないので、テレビでは余り放映されない)。オリジナルプログラム、今はショートプログラムと言われているが、これは8種類の要素を盛り込んだ演技構成にしなければならない。ジャンプが3つ、スピンが3つ、ステップが2つだったと思う。よくミスできないと言われるが、これは減点方式のためで、一つの要素が入らないと確か0.4の減点になり、他でどんなに挽回しても加点にはならないからである。一番問題になるのがコンビネーションジャンプで、これの出来が大きく順位の変動に関わってくる。フリーは4分の演技であるが、ジャンプやコンビネーションの数に制限があるので全くのフリーというわけではない。演技は技術点と芸術点で採点され、その合計で各審査員の順位が決定されるわけである。最高点は技術点、芸術点ともに6.0で、そうそう出されるものではない。なお、ソルトレークオリンピックのペアの競技で審判問題が発生したことにより、採点システムが2003年以降大幅に変わった。よいシステムになったとは言えないが、より分かりにくくなったと思う。

 オリンピックの後に行われた世界選手権では、伊藤みどりはやはり規定で出遅れて、ショート、フリーで挽回するというパターンであった。フリーの演技はフリップがダブルになり、また着地の乱れたジャンプも幾つかあり、彼女としては不満足な演技であった。最終的な順位は、ビット、マンリー、トーマスの順で、オリンピックと同じであった。この3人ともこの年で現役を退いたので、次世代の伊藤みどりが注目されるようになった。問題は規定があることで、みどりの時代が来るのは、規定がなくなる1991年からと言われていた。とにかく、伊藤みどりがフィギュアをスポーツに変えたと言われるが、確かに、失敗する要素の高いジャンプを多く演技に組み込むことによって、演技者と観客に緊張感を与えるようになった。技へのチャレンジとその成功による達成感、フィギュアの観点が変わったのは間違いない。

 1988-1989のシリーズでの伊藤みどりの注目点は、言わずと知れたトリプルアクセルであった。以前にも練習では飛んでいたらしいのであるが、とうとうこの年のプログラムに入れることになったのである。それには成功率が上がったということもあるのであろう。前向きに飛び出すジャンプは恐怖心が強くなるらしいが、みどりは元々アクセルジャンプが好きなのであろう。NHK杯の舞台ではクリーンなトリプルアクセルを成功させ、技術点で6.0を貰った。なお、このときの2位はヤマグチである。そして、世界選手権の大舞台である。ここで思わぬ行幸が起こった。苦手とする規定が良かったのである。6位。優勝を射程圏内にいれたのである。オリジナルではコンビネーションを、ダブルトウ+トリプルトウに変更した。これは予定していたトリプルルッツからのコンビネーションから確実性の高いものに変更したのである。オリジナル1位の成績で、2日目3位となり、フリーで1位を取れば優勝となる位置につけたのである。そしてフリー。山田コーチに見送られながら、みどりは緊張した面もちでリンク中央に現れた。演技が始まり、最初のトリプルルッツは成功。高いジャンプであった。そして、トリプルアクセルへと滑走する。勢いよく飛び上がってゆっくりと回る。彼女のジャンプは滞空時間が長いために、他の人よりもゆっくりに見えるのである。そして着地。着地はクリーンではなく、腰がやや落ち加減になったもののうまく残した。少し回り過ぎたためである。その後のジャンプも次々と決め、後半は緊張が取れ落ち着いた余裕のある演技となっていった。そしてフィニッシュ。後にトレナリーを残していたが、誰もがここで伊藤みどりのフリー1位即ち優勝を確信した。技術点でフルマークが5個出て、問題の芸術点も全員が5.8以上であった。ここで9人の審査員の点数(技術点+芸術点)を書いてみよう。11.9(1人)、11.8(5人)、11.7(3人)である。2位のライストナーが11.5人(2人)、11.4(4人)、11.3(1人)、11.2(1人)、11.1(1人)であるから、伊藤みどりの演技は全く別次元の凄さであった。この時点で、世界選手権において日本人初の優勝、初のトリプルアクセルの成功者となったのである。
 なお男子では1988年にカート・ブラウニングが最初に4回転を成功させており、4回転時代の幕開けとなった。

 1989-1990年のシーズンも敵なしであった。惜しむらくは、規定が残っていたことと、この絶頂期とオリンピックが重なっていなかった。1990年の世界選手権は規定10位と出遅れた。もう優勝は絶望的であったが、かえってのびのび滑れたのかも知れない。オリジナルはトリプルルッツとダブルトウのコンビネーションを決め、1位の成績となった。規定と合わせて4位、自力ではないもののまだ優勝の可能性は残っていた。レベデーワが1位、クックが2位、トレナリーが3位だった。なおヤマグチは5位で、その出来によっては優勝争いに大きい影響を与える位置にいた。結果は、フリー1位で最終成績2位であった。サルコウがダブルになったのが唯一のミスで、トリプルアクセルは完璧な着地であった。技術点のフルマークは3個出たが、他者のジャンプとは大人と子供ほどの違いがあった。ジャンプの堅実なヤマグチは、何故かこの試合はミスが多く表彰台には上れなかった。優勝したトレナリーは「優勝したのは私よ」と言った(実際聞いたわけではないが)くらい、誰もが伊藤みどりこそが世界一と認めていたのである。表彰台のみどりは、屈託ない笑顔であり、それは彼女の天真爛漫さと思うとおりの演技が出来たという満足感を表していた。規定がなくなる来シーズンはみどりの天下になると誰もが思っていたが、この年こそが伊藤みどりの絶頂期であったことを後に知ることになる。

 今振り返ると、1990-1991年は彼女にとって最悪の年になってしまった。優勝したNHK杯は未見なので分からないが、まず全日本選手権。体調不良が伝えられていた。最難関のトリプルアクセルはクリーンだったものの、フリップで手をつき、またトリプルトウートリプルトウのコンビネーションは二つ目がダブルになってしまった。体調不良にしてはまあまあの演技だと思うのであるが、試合できっちりと決めていたそれまでの伊藤みどりを見ていれば、不満の多いできであった。思うに、技術力を維持することが難しくなってきたという悩み、世界トップとしての重圧などが、彼女にのしかかってきたのであろう。そして、規定がなくなり優勝を期待された世界選手権。これは思い出すのも辛い大会で、めったにビデオを見返すこともなかった。最初のトラブルは、SPの直前の練習でのユベール選手との激突であった。激突のシーンはインターネットのどこかのサイトで見たことがあるのだが、かなりダメージを受けたのは見て取れた。壁際での出来事で、ユベールがすごい勢いでぶつかってきた。ユベールの方は余りダメージを受けなかったようであるが、この二人の差は、ぶつかるのが分かっている場合と分からない場合の力の入れ方の違いによるものであろう。わざとぶつかりましたと言うわけはないので、真相は藪の中だが、翌年のアルベールビルでも、公式練習でユベールとボナリーは日本選手をさんざんと威嚇していたらしいので、華麗な世界に似つかわしくないどろどろしたものが渦巻いていたのであろう。ユベールのエッジでみどりのブーツに穴があいたが、幸いなことに足首の調子が悪いので包帯を巻いていてそれで生身まで達しなかったらしい。それでも、みどりはSPに登場した。まずコンビネーションであるが、トリプルルッツ、これはいつも以上に高く着地も成功した。しかしもう壁は間近に迫っており、セカンドジャンプを降りたときはもう壁に接して回避する余地はなかった。そのまま、カメラブースに倒れ込んだ。驚くべきことは、すぐに演技に復帰したことで、2秒位しか倒れていなかったであろう。その後の演技はいつもと全く変わらない出来であった。元々壁際でジャンプを飛ぶ癖があり、また近眼なので壁の切れているのが分からなかったものと思われる。ジャッジではこのコンビネーションを失敗と見なすかどうか意見が分かれたようで、結局は3位という成績であった。すぐの復帰と、終わった後の頭をコンコンと叩く仕草で、影響は余りないように見えたが、ダメージがないわけはない。それは次の日のフリーの演技で分かってくる。なお、この試合でオリンピックの出場枠が決まるため、簡単に棄権するわけにはいかなかった。

 フリーでは、ハーディングが先に滑ってトリプルアクセルを決めており、他のジャンプで幾つかミスがあったものの高い技術点を貰っていた。伊藤みどりは緊張した面もちでリングに現れ、演技がスタートした。最初のトリプルルッツは失敗、トリプルアクセルも転倒、そしてトリプルフリップも失敗と立て続けにジャンプを失敗した。トリプルアクセルは、回転は足りているものの膝に力が入らないような転倒の仕方だった。しかし、その後のループ、サルコウ、トウループ−トウループのコンビネーションは決めて、持ち直すことは出来た。この時のケリガンもいい演技をして、結局みどりのフリーはヤマグチ、ハーディング、ケリガンに次いで4位の成績だった。ヤマグチの演技であるが、ジャンプを堅実に決め、サルコウが抜けたものの、技術点、芸術点ともに非常に高い点を貰った。
 ミュンヘンで行われたこの大会の印象であるが、伊藤みどりに勝たせないという意図があったように思えてならない。みどりから始まったジャンプ偏重の流れを、翌年のオリンピックを控え、芸術性重視に修正しようとする了解が審判の中にあったように思う。それが、ヤマグチが貰った高い芸術点に現れているように思う。仮にこの大会で伊藤みどりがジャンプを成功させたとしても、ヤマグチに完勝できたかというと、そうは思えない。かなり、票は割れたのではなかろうか。ということは、ヤマグチを上回るには圧倒的な技術力の差を見せつけるしかないではないか。みどりはさらに難度の高いプログラムを滑る必要を迫られ、それがさらなる重圧となったのである。

 1991-1992のシーズンはアルベールビルオリンピックを控え、日本の報道も過熱していった。というのもメダルが確実視されているのは女子フィギュアしかなかったのである。実はノルデック複合で金メダルをとって、日本人がその競技の存在を知ったのもこのアルベールビルであったが、それまでは全く世間には注目されていなかった。ただ、報道陣が過信するほどみどりの優勝は確実ではなく、みどりとヤマグチの差はごく僅差になっており、またハーディングやケリガンもみどりやヤマグチの足下をさらう可能性のある存在であった。みどりはこのシーズン最初の試合のラリック杯でヤマグチを下し優勝しているが、その時の演技は相当な物だったらしい。テレビ放映もなく未見なのが悔やまれる。次のNHK杯でも優勝しているが、最初の出だしは恐ろしいくらいのできであった。トリプルルッツ−トリプルトウ、トリプルアクセル−ダブルトウ、トリプルフリップ、トリプルサルコウと立て続けに成功させた。しかしその後のルッツ、ループ、ルッツはどれも失敗し、息切れしたという印象であった。1月に行われた全日本でも優勝しているが、トリプルアクセルを2回試みてともに失敗している。とにかく、ジャンプの難度は今まで以上のプログラムになっていた。
 
 そうしてアルベールビルオリンピック。万全を期すため、アルベールビルでは早くから現地入りし調整していたが、段々とジャンプが飛べなくなったらしい。このあたりの事情は「タイムパッセージ」に書かれているが、どうも体調不良と言うよりも精神的なストレスのためだったらしい。そのため、SPではトリプルアクセルからのコンビネーションをトリプルルッツにして臨むことになった。リングに現れたみどりはこれまでになく緊張しているのが見て取れた。ところが、そのルッツで転倒してしまう。懸命に挽回して、結果は4位。転倒した割には4位に留まれたのは不幸中の幸いかも知れない。ただ、自力での優勝はなくなってしまった。みどりは報道陣の前に現れ、「すみません」と謝った。この様子が報道され、期待されたのに満足な演技ができずにすみません、と日本国民に向けて謝ったように受け取られたのであるが、どうも真相は、悪い出来だからといって報道陣のインタビューを受けないのは失礼だと山田コーチに言われ、それで現地の報道陣に向けた「すみません」の言葉だったらしい。

 ともかく気持ちを切り替えてフリーに臨むということになったのであるが、それはリンクに現れたときのちょっと無理やりっぽい笑顔に見て取れた。いままでは、安心して見られた伊藤みどりの演技であるが、こんなに心配してドキドキしたのは初めてだった。出だしのジャンプはトリプルルッツ−トリプルトウのコンビネーションであるが最初のジャンプがダブルになってしまった。ただしこれは失敗と言うわけではない。問題は次のトリプルアクセルである。既にハーディングは演技を終えていたが、トリプルアクセルは失敗していた。氷上のみどりは後ろ向きから前向きになりジャンプ。しかし転倒。回転が足りていなかった。しかし直ぐに復帰。どうなることかと見守っていたが、それ以降のジャンプは次々と決めていった。そして再度のアクセルジャンプ。元々はルッツの予定だったらしい。後で山田コーチが、みどりはどうしてもトリプルアクセルが飛びたいんだと思った、と言ったように、気迫のこもったトリプルアクセル。これは見事に決まった。ダブルアクセルにスピン。力強い旋律の中でフィニッシュ。好調時のみどりの演技と比べたら、不満足なできであったと思う。しかし、帰ってくるときの両手を振っての笑顔を見たら、よくやったという言葉しかない。彼女はオリンピックで最初にトリプルアクセルを成功させた女性という称号も手に入れた。結局、伊藤みどりはフリー2位の成績で銀メダルに輝いた。優勝は高い芸術性で観客を酔わせたヤマグチで、フリーでも1位の成績であった。ヤマグチのジャンプ構成(ダブルアクセルは除く)は、3ルッツ−3トウ、3フリップ、3トウ、3ループ(失敗)、3ルッツで、みどりの2ルッツ−3トウ、3アクセル(失敗)、3フリップー2トウ、3ループ、3アクセル、3サルコウに比べるとかなり劣っていた。もしみどりに転倒がなくルッツが入っていれば、技術点の差でみどりがフリー1位になっていたであろう。それでも総合では2位のままであった。これほどまでに高いレベルで争われたオリンピック女子フィギュアはそれまでなかったし、今後いつそういう時が来るのか予測できない。まさしく、伊藤みどりとヤマグチがフィギュアをそこまで高めたのであった。
この後、みどりは風邪で世界選手権を棄権したため、オリンピックの演技が現役最後の滑りになるはずであった。

 ところがである。1995年みどりは現役復帰する。実は、一旦現役を引退しても、一回は現役に復帰できるというルールが出来ていたのである。実際、1988年に引退したカタリナ・ビットは現役復帰し6年後のリレハンメルオリンピックに出場していた。ビットの場合は、ジャンプを売り物にしていたわけではなかったので、それなりの成績は残していた。しかし、みどりはジャンパーであり、体力の低下を考えればみどり本来の演技が出来るとは思えなかった。実のところ、長野オリンピックの出場枠取りを期待されての現役復帰だったらしい。連盟も酷いことをすると思ったし、演技を見ていても痛々しかった。現役時代よりも太股が細くなり、筋肉は落ちていたようであった。全日本選手権は貫禄で1位、だが世界選手権はジャンプミスが重なり7位。この選手権ではアメリカのクワンが優勝しており、もう時代は変化していた。結局、みどりはこのシーズンだけで、再び現役を退いた。1997年の世界選手権では、村主も横谷も良い成績を上げられず、長野オリンピックの枠は1つになった。

 みどり選手、本当にお疲れさまでした。
みどり選手はプロで滑っていたのであるが、体調を崩してしまったようで2003年以降全く消息を聞かなくなってしまった。どんな形でもいいので、彼女の元気な姿を早く見たいものである。


みどりの「タイムパッセージ」(1993、紀伊国屋書店)について
 彼女の自伝と言えるものであるが、山田コーチ家の居候になったことは有名で、そのところは詳しく書かれている。しかし、自分の家族のことはほとんど書かれておらず、わずかに兄と妹がいたことが分かる程度である。彼女の両親はみどりが小学6年生の頃に離婚し、母親に引き取られた。フィギュアスケートはお金がかかるスポーツであり、おそらく母親も苦労したものと思われるが、みどりが自分の家庭のことを書かなかったのはそれを気遣ってのものであろう。


そのほかの女子選手

佐藤有香
 伊藤みどりが引退した後、もうこんな選手は10年いや50年は現れないだろう、世界選手権に優勝するような選手は日本から当分でないだろうと思うと、フィギュアスケートへの関心も薄れてきた。ところが、伊藤みどりに隠された格好で目立たないが、いい選手がいたのである。それが、驚異の全日本10連覇を成し遂げた佐藤信夫を父に持つ、サラブレッド佐藤有香選手であった。実のところ佐藤選手は八木沼選手よりも目立たない存在であった。最初の1990世界選手権は14位(このとき八木沼は12位)、アルベールビルオリンピックでは7位、1993年世界選手権では4位の成績であった。滑りのうまさ、特にそのステップには定評があり、安定した成績を残していた。しかし、やはり難点はジャンプで、5種類全てを成功させたというのは見たことがなかった。当時、日本選手で5種類のジャンプをこなせるのは伊藤選手だけだったので、日本代表にはなることができたが、世界ではトップとはやはり差があった。
 佐藤有香選手については、良いスケーターだとは思うが、やはり運が良かったのではないか。有力者が次々と辞退した世界選手権、そこで珍しくジャンプが成功したことなど、運命の女神がついていたのではないかと思う。彼女で一番すごいと思うことは、優勝後の身の振り方である。幕張の選手権の後、すっぱりと引退しプロの世界に入り、プロスケーターとして活躍している。プロでの彼女の滑りは、芸術性が高まっただけでなくジャンプも安定するようになり、アマ時代よりもかなり成長したと思う。またアメリカのスケーターと結婚もされ、旦那さんとペアを組んでおられるそうで、順風満帆のスケート人生と言えるだろう。また伊藤みどりに戻るのだが、苦労の多かった彼女にこそ幸せになって貰いたい。

スルヤ・ボナリー
 フランスの黒人選手であり、彼女も長いこと現役を続けていたが、世界選手権優勝には手が届かなかった。幕張での表彰台拒否事件、やけくそのバックフリップ(バク転)事件など、印象に残るエピソードを残してくれました。彼女は何回か4回転を試みたのですが、いつも半回転くらい回転が足りていなかったため、認定されてはいない。採点に対する不満が大きく、上記の事件はその不満が元になっていると思う。伊藤みどりが頭角を現した頃、アジア人は芸術点が抑えられていたように思うし、ボナリーはさらに抑えられていたように感じた。しかし、ボナリーの滑りはジャンプまでの助走が長く、演技も雑であり、この点は後になっても大きな改善はなかったので、点数が伸びないのも仕方のないところであった。

ユベール
 フランスの選手。彼女は、1991年の世界選手権で伊藤みどり選手に激突したことで有名である。結局、世界選手権ではメダルに届くことはなかったが、みどり選手の怨念かも知れない。わざと当たったのではないかとの話も流れたが、その可能性も捨てきれない。というのも、アルベールビルでも公式練習でボナリーと一緒に日本人選手を威嚇したとか言われており、勝利至上主義のタイプだったのではないかと思うからだ。

クリスティ・ヤマグチ
 日系アメリカ人選手で、シニアの選手歴は4−5年と短い。伊藤みどりのライバルと言われたが、それは1991年の世界選手権優勝から翌年のアルベールビルまでであって、それまではみどりの方がずっと格上だった。1988年のNHK杯で初めて見たが、線の細い選手でジャンプの回転は速いという印象だけで、後にオリンピックを制するとは思わなかった。これは比較した伊藤みどりが抜きんでていたためそう見えただけで、今見返して見ると、ジャンプと芸術性のバランスが取れた良い選手だと思う。

小岩井久美子
 山田門下の選手で、伊藤みどりの後輩らしくジャンプの質が高く、またボーイッシュな感じで結構好みでした。1995年の世界選手権は怪我をして滑ったらしく(見たかどうかはっきり覚えていない)16位という成績だった。

横谷花絵
 佐藤有香の引退後、日本フィギュアは低迷する。当時のフィギュア界は5種類のジャンプが飛べないと上位に入賞できない状況になっていたが、その5種類を確実に飛べる選手が日本にはほとんどいないという有様だった。その中で期待されたのが、5種類が飛べた横谷選手だった。でもやはり地味な印象は拭えず、95-97の選手権は、10,10,23位という成績で、その内ジャンプが飛べなくなっていつの間にか消えていったような印象がある。

八木沼純子
 若くしてオリンピックに出場し、14位という成績はなかなかのものだと思う。また美人選手の1人と言えるでしょう。残念ながらずっと伸び悩んでしまい、ライバル関係にあった佐藤有香選手に大きく差をつけられた形となってしまった。現在は、フィギュアのレポーターとして、時々テレビにも出ておられる。

村主章枝
 彼女も息の長い選手です。最初の頃は、まあまあの選手だと思っていたのですが、いまいちの時代を経て、トップスケーターの仲間入りをするようになった。佐藤コーチの教えを受けたのが良かったのかもしれません。

井上怜奈
 リレハンメル18位でした。その年の全日本選手権でたまたまジャンプが決まって、代表に選ばれた。「たまたま」と嫌みを言うのも、それ以外でジャンプを決めた試合を見たことがないのと、お気に入りの小岩井選手が代表に選ばなかったからです。井上選手は高熱にもかかわらず全日本選手権に出場し、最後立ち上がれなくて担架で退場するというエピソードを持っています。その後、アメリカに渡って、今もペアの現役選手として頑張っており、その根性には恐れ入ったと言うところです。

オクサナ・バイウル
 ウクライナの選手で、あっと現れてあっと消えたというイメージがあります。1993年の世界選手権でいきなり優勝し、次の年のリレハンメルオリンピックでは、ケリガン対ハーディングのバトルを尻目にさっと優勝をさらっていき、そのままプロに転向しました。プロになってからは余りパッとせず、アルコール中毒になったりして、転落人生と言った方がいい状態になったようです。世界選手権、オリンピックの演技は、不幸な生い立ちをはねのけるような、カリスマ性ある演技でした。

ケリガンとハーディング
 二人一緒に語るのもなんですが、ケリガンの知名度の何割かはハーディングのお陰と言えるでしょう。ケリガンの演技も悪くはないのですが、華がないのです。優勝を確信していたであろうリレハンメルでは、バレエの芸術性を遺憾なく発揮したバイウルに主役を奪われた感があります。
 ハーディングが何時から悪役に転向したのか定かではありませんが、トリプルアクセルを引っ提げて登場した時は、伊藤みどりのライバル現ると心配したほどでした。彼女のトリプルアクセルは強引に回るという印象がありますが、1991年の世界選手権ではクリーンに降りていました。現在(2004年)では、山田門下生を初め何人もがトリプルアクセルにチャレンジしていますが、私が認めるのは伊藤みどりとハーディングのものだけです。詳しくは知らないのですが、不幸な生い立ちがあり、また喘息持ちということもあり、同情するところなきにしもあらずなのですが、ケリガン殴打後の行状が余りにも悪いので、今後ともまともな登場の仕方はなさそうです。


陳露
 彼女も出だしの頃は、ヤマグチと同じく線の細い選手という気がして、世界チャンピオンになるだろうとは予想もしませんでした。中国には何故か、女子フィギュアでは目立った選手が出ておらず、陳露が唯一の例外です。彼女が活躍したのは伊藤みどり引退後ですが、フィギュアへの関心が薄くなっていた時期だったので、現役が長いにも関わらずあまり活躍した印象がありません。