CAREME ( Marie-Antoine dit Antonin)
カレーム(マリー=アントワーヌ通称アントナン)

1784〜1833 菓子職人 料理人

 カレームは1784年6月8日、パリに生まれる。本名マリー=アントワーヌ.後年彼は好んでアントナン Antonin の名を使う。
 父親は貧しい建設現場の下働き、25人の子供がいたという。ある日、父親は息子を散歩に連れ出し、安キャバレーでの食事の後、彼の将来について語り、家族の元を離れるようすすめる。
「さあ、行け、世の中にはいい仕事もある.期待してるからな.貧乏は俺達の運命だし、俺達はその中で死んでゆく。今の時代は幸運をつかんだ者の時代だ。何かするには才気さえあればいい、お前にはそれがある。さあ、行け、今夜か明日、お前の為にどこかの店が開くだろう、神がお前に授けたものと共に行ってしまえ」
 父親のこ言葉はいつまでも彼の耳に響き続けたと、後年彼は語っている。
 こうして10歳のカレームはパリの路上に放り出された。彼は建具屋のドアを叩いても良かったし、錠前屋でも洋服屋でも良かったのだ。だが、運命は彼の手を曵いて、しがない安食堂の扉を叩かせる。

 拾われた安食堂での下働きから始めて、カレームはその才能と努力で次第に頭角をあらわしてゆく。両親からほんの初歩的な教育さえ受ける事のできなかった彼は夜を徹して独学し、2、3年で料理に関する事なら不自由なく本が読めるようになる。15歳の時、彼を育てた食堂の主人の元を離れ、有名レストランに料理人助手の肩書きで入り、17歳でタレイラン邸出入りの当時の有名菓子店のバイイ(BAILLY)にアプランティ(見習い)として入る。
 カレームの才能を認め、可愛がっていたバイイは、彼が画廊に出かけ、スケッチするのを快く許した。そして彼のデッサンを認めたバイイはアミアン条約締結の祝宴のテーブルに彼のピエス・モンテを出す事を約束する。そして彼の労苦に充分な報酬も出した.また、このバイイの店で菓子職人ジャン・アヴィスとも出会い、大いに影響を受けている。

 バイイの店の縁でタレイラン邸お抱えの仕事を12年間する事になる。ここにはかつて美食で知られたコンデ公の元料理長、ブーシェが「財務官」として入っていた.ブーシェのもとで彼はパティシエ(菓子職人)として仕事をすると同時に料理一般を学んだ。また、大きな行事の時には臨時で他の多くの有名シェフと共に仕事をし、特にナポリ王ミュラ(Murat)に仕えていたラギピエール(Laguipiere 18世紀中期ー1812 )を師とあおぐと共に大いにライバル意識を燃やしている.ラギピエールは1812年のナポレオンのロシア遠征の際、ミュラに同行し、その撤退のさなかに凍死した.カレームは極寒の地で頓死した偉大な料理人を悼み、パリでこそあなたは死ぬべきだったのに、と嘆いている。
 タレイラン邸を皮切りに彼の華麗なる職歴が始まる。当時のイギリスの摂政皇太子(後のジョージ4世)、ロシア皇帝アレキサンドル1世、ウィーン会議中のオーストリア宮廷、イギリス大使館、スチュアート卿、そして最後にロスチャイルド男爵のもとで7年間過ごしている。

 カレームにとって金は何の意味も持たなかった。彼の芸術のみが重要だったのであり、自分の職業の栄光以外の何ものも彼にとっては重要ではなかった。だが、確かに彼は自身の富の蓄財には無頓着であったようだが、これはとりもなおさず、彼がつくり出す料理芸術にかかる費用に対しても無頓着であったということである。カレームの料理は食材の高価さばかりでなく手が込んでいた。バイイの店でパティシエとして仕事をしていた時から製菓と建築物を結び付け、巨大な建築物のようなピエス・モンテを製作していたカレームはそれを料理の世界にも持ち込み、さながら製菓のピエス・モンテのような装飾をほどこして料理が並べられた。その装飾の為には食べられないもの(食べても美味しくないもの)もしばしば使用され、ボーヴィリエはそれを批判している。自分の芸術は食べ物を精神と心のために提供し、ガストロノームの余暇を楽しみで満たす、というカレームに対してボ−ヴィリエは、料理人の仕事とは、目でなく舌を楽しませることであり、余暇ではなくて腹を楽しみで満たすことだと反論している。ボ−ヴィリエとカレームの二人のスタンスの違いは、かたや市中にあってレストランを経営し(とはいってもブルジョワジーや貴族などのお金持ちを相手にしていたことに違いはないし、彼自身プロヴァンス伯、後のルイ18世の厨房の出身である)、かたや当時の錚々たる人物をパトロンにして仕事をしてきたものの違いでもあるかもしれない。
 
 カレームの創作や改良とされている料理やお菓子、道具は多い。
 プロン、エクレール、シャルロット・ア・ラ・パリジェンヌ(ア・ラ・リュス)、ヴォル・オ・ヴァン、そしてコック帽、数々の鍋、数々のソース、ポタージュetc.
 もちろん、カレームの業績はこれら個々のものに帰せられるのではなく、フランス料理の一つの新しい流れを作ったことにある。彼の料理は壮麗な建築物を模した装飾的な一面を持つが、同時に料理から中世のなごりである肉と魚がごちゃ混ぜになるような料理や、スパイスをやたら使ったソースなどを一掃し、シンプルにした。(現在の私達から見るとまだまだ気が遠くなるほど手が込んでいるが...)この改革の中から、ソースの帝王とまで呼ばれるようになったカレームの本領が発揮され、それと関連して多くのポタージュが生み出された。
  

 また、カレームは良く知られるように、食と通ずるあらゆるものに興味を示し、料理人であると同時に作家、哲学者であったと言っても良い.そして著作を残すことが彼の生涯の希望であり情熱であった。
 著作は以下の通りである。

Patissier pittoresque 「華麗なる菓子職人」 1815
Patissier royal parisien 「パリの宮廷菓子職人」 1825
Maitre d'hotel francais 「フランスの給仕長」 1822
Art de la cuisine au XIX siecle 「19世紀のフランス料理術」1833 (未完 弟子のプリュムレPlumerey が4、5巻を書き、完成させる)

 カレームの生きた時代はまさにフランスのガストロノーム(美食学)の発祥と期を一にしている。アンシャンレジーム(旧体制)の特権階級に仕えていた料理人達は、あるものは街にレストランを開き、あるものは新興貴族や新興ブルジョワジーの厨房におさまった.そしてパリのレストラン文化の基礎を築いていくと同時にグリモ・ド・ラ・レニエールを筆頭とするガストロノーム文化、食批評文化も花開いてゆく。

 カレームにおいて特筆すべきは、彼はアンシャンレジーム(旧体制)の生き残りではなく、まさに革命後の第一世代の新しい料理人であった言う事だ。彼の才能と努力、そして新しい時代の空気の流れがこの天才料理人、菓子職人を生んだと言っても良いだろう。
 そして彼の仕事はジュール・グッフェ、ユルバン・デュボワへと引き継がれ、一つの爛熟と退廃の後、オーギュスト・エスコフィエの登場を待つ事になる。