ジュリアン兄弟についてはサヴァランやトロワフレール(三人兄弟という意味)の型、シブストの店などの話題とともにしばしば挙がってくるが彼らのパティシエとしての像はなかなか立体的に見えてこない。一般にファーストネームまで紹介されているのは次男のオーギュストのみで、他の二人はファーストネームすら紹介されていない。
アルトゥール・ジュリアン<Arthur Julien> ,1820~1886
オーギュスト・ジュリアン<Augusut Julien>,1821~1887
ナルシス・ジュリアン<Narcisse Julien>,1825~1890
ピエール・ラカン著の「LE MEMORIAL HISTORIQUE ET GEOGRAPHIQUE DE LA PATISSERIE」(歴史的地理的お菓子の覚え書き)に彼らについての記述をみつけた。非常に読みにくい文章なので料理やお菓子を専門に通訳の仕事をしている友人のchocolat(ショコラ)さんに訳して頂きました。背景がよくわからないのでちょっとわかりにくい内容になっているかもしれません。
(chocolatさん、ずっと前に無理矢理訳してもらったのに、長い間アップしないでごめんなさい)
サヴァランの、本物のシロップはラ・ブルスから。
ラ・ブルス〈 la Bourse 〉の菓子、ラ・ブルスのサヴァラン、ラ・ブルスのパンセ〈pensee〉、ラ・ブルスのジュリアン兄弟と、すべてはラ・ブルスからだった。しかし、この店へお菓子を食べに出かけるには、ラ・ブルスに、すなわち財布にお金を詰めていかなくてはならなかった。エクレアやサヴァランは5スーだった。他の菓子は、4スーと2スーだ。2スーのお菓子はどんなものか。シュー・グリエとメック〈Mecque〉のパンを考えずにはいられない。エショデは本来、型の中で焼成するが、テン板の上で焼いたエショデであった。もしもファヴァル(フランスの喜劇作家)が、この時代(1700年)にシュー生地を知っていたならば、エショデとは違うやり方で、どれ程の財をなしただろう。シロップの中に菓子を漬け込むと言うアイディアを最初に思いついたのは、ジュリアン三兄弟である。これは知られていることである。ゆえに繰り返す必要はない。インテリの次男(兄弟のヒゲから、人々は彼らを三人の原始ガロワと言っていたようだが)オーギュストがボルドーに旅に出た際に、菓子に刷毛でシロップを塗る事を知り、風呂に浸かるように菓子をシロップに漬けたらと考えついたのだ。そして、彼はそれを実行に移したのだ。モントルグィユ通りのストレール(オーギュストはこの店で働いていた)このポーランド人は、クグロフをババに転化させて大儲けしたが、この菓子を思いついたり創作したのは、彼でもポーランドのスタニスラス王でもなかった。ストレールは、ババで評判を取った。しかし、ババにシロップは打ってはいなかった。
アントナン・カレームにババのレシピーを与えたミューラーによれば、彼もババを作っていた。マラガやマデラ酒を入れた生地を発酵させ、天火で焼成していた。ストレールもまた1835年だったが、ババを焼成し型から出した直後にラム酒をかけ、布で包んでおくことを想像していた。ババは、ずっと2フランから6フランの間だった。その小さなお菓子を需要に応じて店に並べた。1843年に、ジュリアン兄弟はサンタンヌ通りに移り住む。ラ・ブルス広場の小さな街角に居を見つけて、急いで借り受けた。小さな門を大きく開け放った。富の形成の夜明けである。サヴァランとそのシロップを世に送り出したのだ。続いてラ・パンセ、ル・リッシュルー、ル・トロワ・フレールも発売したのだった。
地方や外国ではジュリアン兄弟とラ・ブルスの菓子についての話しばかりであった。ジュリアンの店出身のシェフは、ラ・ブルスの名称だけで菓子を売り込んでいた。彼は、月に70フランか、上は80フラン以上を稼いでいた。当時では大した金額だ。今この金額であれば、1リットルのパイ生地から1スーの菓子を60個または、1フランのガトー・アーモンドを6個作り出す職人を見つけられるだろう。ジュリアン兄弟は、不滅の名前を残した。大デュマは、「菓子の巨人」と兄弟を呼んでいた。サヴァランは、ラ・ブルスで40年近くも成功を収めていた。サヴァランは作り続けられていた。ここではシロップ、それもとても美味しいシロップも作っていた。しかし、オーギュストにとって困難を極めた結果に違いない、この有名な取り合せに近づくことが誰も出来なかった。彼はラ・ブルスで1851年~1858年の間、元旦から12ないし15ボヤソー(1ボヤソーは12.8リットル)もの小麦粉でサヴァランの生地を作っていたのである。当時のボアソーは12リットル入りであることはだれもが知っているが、読者諸君にとってそのことが彼らに大金をもたらせたに違いないと言うことは想像に難くないでしょう。ラ・ブルスの角の29、rue des Filles-St-Thomas(フィユ・サン・トマ通り29番地)の家には、まだ各15、20、30フラン用のサヴァラン型を見つけることが出来る。1868年以後のQuartier-Septembre(カルテ イエ・セプトンブル)から彼らはいなくなり、新しいヴォドヴィルも消えた。全てが変ってしまった。
サヴァランはいつでも美味しい菓子で、温かなサヴァランも冷たいサヴァランも、一日として供されない夜会はなかった。クリーム菓子よりも好まれていた。サヴァラン用のリキュールが羨ましがられたのだろうか。多くの菓子屋の息子たちが、ラ・ブルスに職人として戻り、そのレシピーを体得すべく働き場所を得て、その巧みな混ぜ方を見つめた事か!何人もの職人が小瓶につめて持ち帰り、分析させた事か。すべては徒労に終ったが。私は、このレシピーを長いこと手元にし、オーギュストの持つ創造力を人に知らせる、と言う興味がゆえに人々に与えてきました。(他のスペシャリテであるフェリックスのリキュールを与えたが、これについては19頁参照)。
各リキュールの分量は10リットルづつだ。皆の前でブレンドしたり、樽を持ってこさせたりしたのは、友人の蒸留酒製造者であった。名声を博したジュリアン兄弟の戯画がいたるところにあった。特に力と熱意のシンボルとして、彼らを真っ赤なオマールエビで表し、3匹に1つの帽子をかぶせて表現したものだ。いかに多くの戯曲がヴォードヴィル(軽演劇)で演じられていたことか。それも当時としては非常にうまく演じられていた。そこではジュリアン兄弟の菓子のことも語られていた。ジュリアン兄弟のリュション、ポゥ、ベアリッツの店では、メレンゲにはガルニが施されていた。今日ではすでに故人になってしまったマドムワゼル・ファルグイユ(歌手)の歌をかりて劇中で、ガルニしたメレンゲやジュリアン兄弟のことが語られた。ジュリアン兄弟の店は、どこの製菓店もかつて持てなかった、またこれからも出現しないであろうような、名声を勝ち得たのだった。ブールボノー、ゴウフル、カレーム、シブースト、フラスカティ、ランソン、ピシェたちは、非常によい評判を得たのには、チャンスが働いた。しかし、ジュリアン兄弟はそうではなかった。彼らは、後から後から新しい菓子を作り、パリで一番美しい通りで手から手へ販売した最初の人たちである。まだまだこの店について言う事があるが、ここで私は偉大なオーギュストの才能に敬意を表する事としよう。
死亡記事
ジュリアン兄弟の最後の一人が亡くなった。ナルシスは3月17日に息を引き取った。ナポリで卑劣にも殺された長兄については多くを語るまい。私は彼の事はよく知らないのだ。サン・タンヌ通りの宝石商としてかなりの財をなした後、ナポリに退き込んだ。私は一年間余り働いていたジュリアン兄弟について語ろう。彼らはパリジャンたちから愛されていた。カレーム以来、フランスの隅々までに至るほど、これほどの名声は見たことがない。大デュマは彼らの友人であった。いかに多くの軽演劇ヴォードヴィルがジュリアン兄弟のことを題材にした事か。戯画にも多くの筆が費やされた。手入れのされていないヒゲと夏にはメキシカンハットを頭に載せ、冬には赤いベロアの帽子を被っていた。フランク人の祖先の顔である。彼らはいつでも非凡であった。同様に、シブースト、ギネ兄弟、ルサージュ、オードリ・ロベール、ピシェなど多くの人たちも店を構えており、それなりの評判を得ていたが、ジュリアン一家は、パリジャンから甘やかされるような運の持ち主であった。菓子に飛躍を与えたのは、彼らであり、創作するトロテ イエを勇気付け、常に新しいものを生み出し続けた。職人たちにとっては、金銭的なことや工場の清潔さなどを教えてくれる父親であった。アルチュールが、次に、それを6ヶ月前に知らせてくれたナルシスは、彼に苦痛を与えた不幸とオーギュストを連れ去った不幸を嘆いた。それは菓子にとって大変な損失である。彼は多くの善行を行っている。密かに、いかに多くの貧困を救うと言う奉仕を行ったか、人々はそのことを知らない。この人物は、実に善人で敵を決して持たなかったと私は信じる。誰もが彼を愛し、尊敬した。彼とソネットはしばし財布から金を出して、1870年戦争後苦しくなったラ・ソシエテを援助した。そして我々が彼の数々の献身に対する感謝の気持ちを込めて金メダルを贈った時には、子どものように泣きじゃくり出した。ラ・ソシエテは彼にとって家族のようなものだった。それだけでは満足せず、ボンヌ・ヌーヴェル保育園の園長になり、第2区の慈善事務所の管理者及び世話役やセーヌ県の相互援助団体の諮問委員会の財務官、20ほどの相互援助共済組合の名誉会長になっている。
彼はまた表彰状を創設し、ラ・ソシエテの拡大に寄与いた人々に授与した。死は10年も早く訪れた。もし彼が生きていたならば、2年以内に彼のプロジェクトが実現していただろう。私たちのソシエテに恩恵を与えてくれるような。もうこれ以上話すのはやめよう。ジュリアン兄弟はローブ県のセザンヌで誕生した。私は言いたい。ジュリアン兄弟は亡くなったが、存在していると。そしてこれからも生き続けるだろう。オーギュスト夫人とナルシス夫人に哀悼の意を捧げます。
1890年3月21日 偉大なる博愛家を称えて